シンセ

Underground Resistanceのmillenniun to millennium ”timeline”(UR2001)という曲は、本当に思い出深くて、リリースから15年近く経とうとしてる今でもぼくにとって、とてもとても思い入れのある曲だ。

確か、発売されて日本国内に輸入されたとき( 〜当時は、CISCOさんが、日本での代理店をしていたように思う/まだ、神戸のアンダーグラウンド・ギャラリーが代理店になる前の時季でした )、上野のアメ横にも店舗の在ったディスクユニオンで買ってきて、家で何度も何度も聴いた。

あの頃、だれかれ構わず人に会えば、デトロイトの話をしていたように思う。

ちょうど、初めてのデトロイト滞在から、ほんの三ヶ月経つか経たないか?というようなタイミングだった。

あの頃、デトロイトに行けたのは、本当に運が良かった…としか、言い様が無いほどに、行き当たりばったりの連続だった。

その年、つまり2000年の3月だっただろうか?

まだあの当時、新宿歌舞伎町に在ったリキッドルームにて、日本在住の作家たちの作ったテクノミュージックを全国のレコード屋さんに流通していたディストリビューターで当時の長電話友達のひとりでも居られたYさんをはじめ、何人かの先達有志の皆さんによって企画運営された"TURN ON,TUNE IN"という2DAYSパーティーが開催され、ぼくもYさんから直々に誘われて、ライヴで参加させていただいた。

この催しのあった頃から、なんとなく予感がしていたのだが、それなりに準備をしたライヴを遣らせてもらった後の燃え尽き感からだったのか?スランプの波が、「来た」のを感じて、突飛な思いつきで無銭旅行をやりたいとか、遂行するにあたって、何か思い出になることをやりたい、もう半ば自棄っぱちだったと記憶してるが、とにかく新世紀前後という時季で、不安だったり、舞い上がっていたのかもしれない。

 

1997年春にウッドマン名義でのカセット作品を発表して、段々と調子に乗ってきた/波にも乗ってきた…というシーズンの到来と入れ替わるようにして去って行ったのが、それまで7年近くつきあっていた女性との関わりだった。

それまでは、ほとんどの時間を、その女性との生活に費やしていたエネルギー( 〜ぼくの方は結婚も考えていたが、彼女は新しい道を開く意志を貫くカタチで留学の為、渡米した)を注ぎ込む対象が、ウッドマンとしての活動に替わったような感じで、本当に多くの新しい友人知人との出会いのチャンスに恵まれたのだった。

元来、お調子者のぼくは、徐々に調子に乗りまくり、年かさも同じからか?共通の話題も多く、妙に気の合う、ロスアプソン店主の山辺圭司くん( 〜彼を紹介してくれたのは、お互いにティーンの頃から友達だったKIRIHITOの圏ちゃんだった&山辺くんのお店でぼくの作品を扱っていただく前の時季に同じロスアプソンのカセット売り場でブイブイ言わせていたのは、その圏ちゃんと一緒にKIRIHITOをはじめた水野ヒロシつまりハイスピード現在テレビ番組のアニメ制作やドローンのレーベル吟醸派をやっているミズヒロである:彼ともティーンの頃から仲良くしてもらってたのだった )をはじめ、

虹釜太郎くん

中里丈人くん

先ごろ復活したギラギラナイトで、ムードコーラスを中心にDJや自らマイクも握り現場を盛り上げる「今宵は、アナタのホストです♪」でお馴染みの秘密研究所所長:秘密博士

また、当時、Asteroid Desert Songsメンバーのひとりだった高井康生くん

ムードマンのレーベルm.o.o.d.からアルバムを発表して間もない頃だったWhy Sheep?内田ガクくん

もちろん、ナスカカーの中屋浩市さん

今はBonanzas等で活躍してる吉田ヤスシ兄さん

当時は、グラフィッカーを名乗りってカッコイイ作品を連発していた37Aちゃん

佐々木敦さん主宰のUNKNOWNMIXからドランクテクノ名作アルバム『エコー・サウンダー』を発表したばかりのDOT兄さん

HOI VOODOOのふたり

生西康典くん

ククナッケ兄さん( 〜くく兄、DOT兄さん、生西くん、HOIの高山くんの各氏は、当時、ロスアプソンのスタッフとしてもお店に出ていました )

L?K?O

ムードマン&ひだちゃん 

Q OF Qの福ちゃん&ようこちゃん

今やドミューンでの活動もお馴染みになった宇川直宏くんもサンフランシスコから帰ってきた頃だった。

サーファーズ・オブ・ロマンチカの宮原くん、元木さん、上條くん

当時は、オーディオテラーを名乗ってタンテを擦って、サーファーズのLIVEでもゲストメンバーだった現在の脳くん

空手サイコを名乗って期待の若手だった現在のラテン・クォーター

現在は本業のデザインやアートワークで活躍してる大原大次郎くん

( 〜もちろん現在はペイズリーパークスで活躍してるKesくんやギタリストのKASHIFくんもだが、彼らは、ぼくがウッドマンを名乗る以前、エレキングの読者コーナーがきっかけで、連絡を取り合い、音源のやりとりをしていた)、

それから、忘れてならないのは、当時は渋谷のタワーレコードの五階の隅っこの方に在ったニューエイジコーナー( 〜ここに、先述したYさんが間に入って卸納入していた当時のテクノや電子音楽実験音楽…例えば、竹村延和さん主宰のチャイルディスクや永田一直くん主宰のtransonic、それからゼログラヴィティ、原雅明さん主宰のSOUP、虹釜太郎くん主宰の不知火/360、等々、本当にそのまま近くに在ったパリペキンレコーズが移って来たかのような賑わいのあるコーナーだった )を担当していた、現在は「沼」や"Something In The Air"のお仕事でもお馴染みのコンピューマさん

恵比寿みるくの名物おかあさんとして君臨されてた塩井るりさん

当時、FADERを創刊した頃の佐々木敦さん、原雅明さん

クララ・オーディオ・アーツをはじめていた野界典康くんと、アメチェ!

確か、はじめは、クララ経由で知り合った、ルドルフ

部活のメンバーとして知り合った当時、雑誌Fader by Headzのオフィスのスタッフでもあった丸木さん 

ドイツからやってきて、祐天寺の風呂なしトイレ共同アパートに住みながら、自らのレーベル:富士レコーズと、Cha-Bashira(茶柱)を立ち上げ、ロスアプソンの開店記念コンピに呼応していたかのようなFUJIコンピ盤をはじめ、音声詩やスクラッチ、即興、フィールド録音シリーズ等々、興味深いタイトルを発表すしたり、自らもインスタレイションやサウンドアート、ライヴパフォーマンスと、精力的に活動していたポルマロー 

ロスアプソンで顔を合わせたことが、きっかけで、知り合ったけど、東京の東半分に住んでる同士だったり、たまたま近所の雑貨屋さんで働いてたところに遭遇、さらに仲良くなったSAMPLESSのおふたり

偶然にも幼稚園のときの親友の弟さんと仲が良いことが判って以来、現在も何かと親しくさせてもらってるADAMこと羽鳥くん

とにかく、それまで知らなかった人たちと、出会い…何だか、面白いことになっていった…

で、翌年は、虹釜太郎主宰360°Recordsから" ALASKA - arctic soul audio vol.1 "を発表したり、とにかく、それまでの短くない同棲生活の終わりのショックと思い出をかき消すかのように、好きなこと好きなようにやっていた。

山辺くんたちとやっていたBukatsu(部活)は、Ze'vの来日公演が、砧公園内に在る世田谷美術館で行われた日、ライヴのあと、公園のピクニック弁当とか食べれるような木製のテーブルの上に各自が持ち寄った音の出る鳴り物やカセットプレイヤー、ポータブルラジオ等々を並べて、気ままに鳴らして、合奏ともなんともつかぬ演奏?をひとに見せるわけでもなく、やったりもして、これが始まりだった。

このあたりから、山辺くん野界くん虹釜でやってたPlants to play with jazzというイベントに出演していたような人たち…、たとえば、コンピュータスープの面々、青山政史くん、Amephoneの柳川くんやFLYをやってらした山田さんや庄司さん、それから安斉オサムくん、ユタくん、tamaruさん、ストレインジガーデンのAKAIWAくん、ナーヴネットノイズの仲丸さんと熊切さん、等々、虹釜や中里くん、永田くんらが各々運営していたレーベルから作品を発表していた人たちとも知り合えるようになっていった。

そーだった!ギラギラナイトが、まだ渋谷のアニエスbの近くにあった頃のアップリンク・ファクトリーでやってた時季に、岸野さんやトニー吉田、常盤くんや、Mint-Lee姐さんとも知り合えたり、この頃には、Communediscのスズキくん、DIY感たっぷりのカセットを作ってロスアプソンに颯爽と登場したmempisくん、当時レーベル不燃ゴミからカセットを立て続けに発表していた露骨キットとも仲良くさせてもらってたっけ…

虹釜とのやりとりは、旅先で意気投合した同士の茶飲み話よろしく、彼のレーベルや音に対する付き合い方も身近に感じて、こんなに話の通じるやつもなかなか居ないよな…と、感激したのを覚えてるが、とにかく、97年の晩夏から翌年初頭にかけて、WOODでのカセット作品として、アラスカ三部作を制作( 〜三部作中、第二作目となる"Polar Rave #2"に山辺くん、くくなっけ兄さん、ADAMとともに虹釜も音とジャケットアートで参加~参加者全員が、音のみならずヴィジュアルも作ってもらうようにお願いした~してもらったこと&虹釜の不知火からのリリース作品のうち、原雅明さんのプロジェクトのリミックス( 〜V.A."Force of Eight"の二曲目に収録 )を遣らせていただいたことが、リリースの企画を確実に進めてく契機になったと思う )したことがきっかけで、彼のやっていた360° Recordsから、リリースさせていただくことになった。

オリジナル盤のインデックスを見ていただくと、お判り頂けると思うが、新聞の読者コーナー/イエローページよろしく割付した各欄には、当時、仲良くしてもらえた友人たちにお願いして、好きなように書いてもらった( 〜というのもありがちなサンクスのクレジットではないカタチで、やりたかった )

そーそー、忘れてならないのは、このアラスカをマスタリングしていただいたのが、TRANSONICやZERO GRAVITYを主宰、運営するかたわら、ファンタスティック・エクスプロージョンやギラギラナイトで活躍していた永田一直くんで、アタマの回転の良さと、時折顔を見せる人間味のあるところに男惚れした。永田くんの存在は、大きいなー、というのもシンセの音が大好きでミュージックを始めたというだけでなく、年が近いせいもあると思うが、とにかく小学生の頃に出来た仲良しみたいな気持ちになるのだった。互いにどこかアカデミック特有の勿体ぶった雰囲気とか窮屈にも感じてるようなところで、話が通じやすかったのかもしれない。

まぁ、当時の笹塚時代のアパートの部屋は、散らかってましたね。同棲時代は、結構、整理整頓してたんだけどなーw 

甲州街道に面していたので、多少の爆音も問題なかった…さすがに隣の部屋の友人が引っ越した後、もひとつ隣の部屋に住んでたおじさんにちょっと音量下げてと言われて大反省しましたがw( 〜空いた隣室が、アンプの役割を果たしてたみたいです )

 

それから、97年10月に西海岸からINVISIBL SCRATCH FORCEZのQ-BERTとD-STYLEが来日して、新宿リキッドルームで演ったとき知り合った中里丈人くんの立ち上げた自主製作レーベル:SONIC PLATEから"TWINKL"を発表。

もうひとつ、97年夏にぼくのWOODからの5番"A BARBARIAN IN ASIA"(題名は、アンリ・ミショーのアジア紀行ものエッセイのタイトルから拝借)のCD版をFar Eastern Experimental Sound(F.E.E.S.)から発表の傍で、WOODやJAPONICAからのカセット作品もタイトルを増やして行きました。

1998年から1999年と、ライヴの機会も徐々に重ねていくようになってましたが、特にこの99年が、かなり無茶してたなー。

もし今、当時と同じことを同じようにやろうとしても…やっぱりあの当時だったから出来ていたような無茶というか、好き勝手やらせてもらってました。

80年代はプログレッシヴロックやクラウト(ジャーマン)ロック、ユーロトラッド等の専門音楽誌だったが、90年代は渋谷系のシーンにフォーカスするようになっていたいたマーキー( 〜マーキームーン時代は池袋のマンションの一室に編集部が有ったが、90年代は渋谷宇田川町に有った )で、連載ページも書かせてもらったり( 〜無償の代わりに身近なアーティストや作品を紹介させてもらうという方針だった )、ぼくの変名プロジェクトで立て続けにカセットを出すことにも精を出しすぎてたというか…、

バスルームモンキーズ ( 〜当時、お小遣いで購入したBOSSのサンプラーが嬉しくて録音しまくったジャンクサウンド専門プロジェクト )

BBQ Paradise ( 〜うっど活動以前の時季に勤めていた築地市場で知り合った客家人の友達との焼肉食べ放題の記録を元に作ったオルタネイティヴ・ドキュメントのプロジェクト。2作目以降は、音響派的アプローチの微弱音ばかり収録した作品を制作&発表 )

軟波ラジオ ( 〜環境音楽としてのラジオ番組というコンセプトでしゃべりからスポットCMまで作るという凝りようのプロジェクト )

Dj Eromango & the World Connection ( 〜友人づてに使えることになったヴィンテージ機材のひとつである京王技術研究所製ドンカマティックを導入して、妄想ベリィダンスチューンを創作!自演乙のカセット2本組として存在 ) 

Noi ( 〜19歳の頃からはじめた貧乏旅行で必ずと言っていいほど滞在するタイ国の佛教系の読経の音に影響されて制作した、ストレインジムードミュージック )

マカロニマン ( 〜ライヴの回数が増えてゆくに連れ、現場から帰宅後、息抜きのつもりではじめたマカロニマンの作品は、基本オルガンの音を必ず使って作曲という決まりごとを自分に課して録音された )

Arctic Cat ( 〜ソニックプレートから発表された『TWINKL』と並び、当時のライヴの雰囲気を伝える作品 )

にせ十字 ( 〜うっど活動開始して、この日記でのデトロイト、二回目の滞在から戻ってきて勤めだしたサウナ施設でのお風呂グルーヴを音にしてみようと挑んだゆるさを指向したアンビエント?プロジェクト )

Osaka Massage ( 〜日本的床の間のスケール感のハウスミュージックがあったら、どんな感じなのか?を指向したプロジェクト。段々と後のロフト系ハウスとシンクロしてくような…いや?錯覚かw )

ほんと、アルバムの機会をあたえてもらってたのに待たせてしまった挙句、しばらく距離を置くことになった中里丈人くんには、電話の向こうから怒られるという出来事もあって、段々と、疲労が溜まってたんだろうな〜と思います。

で、単に忙しくしてただけでストレス溜まってったというよりは、もっと、本質的なところもあったと思うけど、80年代後半のダンスホールレゲエシーン( 〜新宿花園神社に隣接してた第三倉庫でレギュラーを張ってたランキンタクシーさんにアポなしで俺もマイク握らせてくださいと開演前に頼んだら、快くオッケーしてもらったにも関わらず、本番でガッチガチだったけど、NAHKIさんにも「続けてたらいいことあるよ!」と、励まされたことは、ずっと忘れられぬ思い出です )や、桑原茂一さん主宰のクラブキング関連のパーティー( 〜当時は、有名なインクスティック芝浦だけぢゃなく、たとえば、池袋の西武デパートの屋上でもDJイベントが開催されてたりもしたのでした )が、大好きだった頃から十年余り( 〜この時期、マニュアル・オブ・エラーズだとか、岸野雄一さん達の京浜兄弟社を知ってたら、その後の道が変わっていたのかな?とも思うが、ごくたまに社報を駿河台下の増渕ビルに在った頃のレンタル店JANISの階段縁りで手に取る程度だった )ず〜っと、海老一染之助・染太郎の演芸をラジオで聞いてるような違和感をクラブシーンに少なからず抱いてたのも事実で、あの頃は、もちろん今みたくtwitterとかなかったし、mixiすら登場してなかった。

掲示板だったなー、しかもぼくの場合、パソコンとか持ってなかったから、あんまりよくわかってないまま、現在に来ちゃってるところがある…

カセット好きのためのファンジン『わかめ』を露骨キットとやってたのもこの1999年の頃でした。

自分のミュージックを製作するのに用いていたヤマハのミュージックシークェンサー:QY70を使い倒してく過程( 〜QY70の前は、ヤマハのRX7というドラムマシーンをギター用の複合エフェクターにつないだ音をカセットデッキで直かに録音していました )で、いろいろ煮詰まって行ったようなとこもあったと思います。

とにかく、声高に口外することなく1987年頃からの旅先のバンコクで買ってきて好きだったタイ国産ローカル歌謡のひとつ:ルクトゥンの復刻カセットやマレイシアのペナン島やマラッカで入手したインドポップスの海賊カセットを聴いたりして、クールダウンしてました。

尤も、スランプって、ある程度は予測できるもんだと思ってたし、本当にそうでした。

自分の場合は、短期間でよいので、どっか旅行にでも行かないと、息詰まるなこれは…というもんでした。

で、なるべく、消費行動が主軸にならないような旅。

それで、いろいろ考えてみて、ちょうどエレキングデトロイト取材の特集が、強烈に印象的で、当時、スマーフ男組のマジックアレックスさんや十代の頃からの友達である中田久美子さん( 〜当時は、エレキング誌の立ち上げからの編集や写真/有名なジェフミルズのステージ写真をはじめ数多くのテクノ・クリエイターの写真を撮影した功績は大きいので、いつかドミューンとかで特番組んでほしいマジで!)と、お茶飲みながら、スゲエいい記事だった!感動したなぁ〜マジで…と、共有していたこともあって、それまで漠然と考えてた無銭旅行でアメリカ大陸横断的な無茶なコースを修正して、前述のデトロイト特集にも取材のため渡航していた中田さんに窓口になってもらって、デトロイトに行くことにしました。

 つづく( 〜ここまで2015年6月に記載 )

 

前回からのつづき

 

2000年の9月は、まず、花代ちゃんが台北の市立美術館で開催された台北ヴィエンナーレに作品を出展、それに伴って、プレオープンの日のレセプションパーティーに美術館の敷地内にある広場でライヴをすることになり、確か、おなじ時季、渋谷のパルコ美術館で開催された花代 ウツシ ユメクニ展( 〜キュレイターは東谷隆司さん、フライヤー等の意匠は宇川くん )で、展示会場に流す音を担当させてもらったことも重なって、花代ちゃんからの連絡で台北でのライヴのサポートメンバーのひとりとして、参加させていただくことになったこともあり、結構めまぐるしい展開だった。

(台北での思い出は、また加筆します) 

二泊三日の台北滞在から、無事に東京に戻って来て、真っ先に考えなくちゃならなかったのは、お金の問題だった。

なんせ、先立つものが無い。

とりあえず、手っ取り早く印刷会社の夜勤バイトで日銭を稼ぐことにした。

が、これが、へなちょこなぼくにとって、結構きつかったので、夜の休憩中、夜空を見上げながら星をかぞえたりしてみたりしながら、都会の空で23個ぐらい星を数えたところで、そーいえば、リミックスの仕事で未だ精算してなかった案件があったことを思い出し、翌日、担当の人に連絡を取って事務所にうかがうことにした。

今ふりかえってみると、あのとき、報酬を上乗せしてくれたんではないか?と感謝の気持ちでいっぱいだが、これで、前々月のビアガーデンでのバイト代で、すでに買ってあった航空券とパスポート、若干の自分の音源を持って安心してデトロイトに行けることとなった。

 

2000年9月の下旬。

成田から、ニュジャージー州ニューアーク経由で、ミシガン州デトロイトに到着。

乗り換え便でデトロイトに着いたのが、夜だった。

夜9時ごろ、中田さんを介して連絡をとっていただいてたKさんにクルマで迎えに来ていただいて、先ずは、市内中心部にほど近い、KさんとパートナーのXさんのアパートに泊まらせていただくことに。

着いて早々、今夜は、シカゴからヴェテランクリエイターのBoo WilliamsがDJとしてハムトラムックにあるバーCLOUD 9でスピンするから、一緒に行こう!ということになって、便乗させてもらった。

もうこの時すでに、自分自身にとって生まれて初めての北アメリカ大陸滞在ということもあって、これまで日常的に触れてるアメリカを知ってるつもりだった知の工業規格みたいなもんが、揺らぎまくってるのであった。日本で「舶来物」として享受できるあらゆる分野でのアメリカでは、微塵も感じることのなかったスケール感とか、土地で醸成されて何時かは朽ちてゆくような時間の作り出す雰囲気のレイヤーのようなもの:ヴァイブスといったものを主に自分の身体の大きさについての実感覚が、明らかに変容してるのだった。

日本だと、ぼくの体型は、比較的大きい方なので、あらゆる場面で萎縮してるものが、解放されてくのを感じ、歩道や建物のドアや居住空間のスケール感、吹き付ける風や雨の遠慮のない感じ、何より、ぼくより身体の大きい人たちが当たり前に多いこと等々、すごく楽になってゆくのだった。

そして音。

音響は、電圧が大きいのと、乾燥した気候風土との相乗効果もあって、とにもかくにも鳴りが、良い。

ダンスミュージックの多くが、日本の太鼓のように腹に響く。

響くのだが、耳に痛くない。

CLOUD 9でのデトロイトのWaxmaster D.と、シカゴから巡業にやって来ていたBoo Williamsのスピンは、1800年代から存在してるようなジュークジョイントのような雰囲気だった…というと、大袈裟かもしれないが。

空間の広さでいうと、名古屋にあるドミナとか、大阪に在った鶴の間ぐらいの大きさで、無理のないペイスで、徐々に音が上がっていく感じで、硬質なエッジの取れたスムースな音響の質感は、Boo の得意とするメランコリックなテイクと相まって、気持ち良かったなー。

 

思いの外、大きく影響してるのでは?と思うのが、デトロイトの場合、日本の各都市〜市街地のような「駅前文化の騒々しさ」が、皆無に等しいので、音楽にせよカルチャーにせよ、もっとありのままに存在してるように感じるのだった。

異なった言い方をすると、はじめに「人が在る」:人の不在の割合が大きいと、長期滞在か、フェスティバルのシーズンでもない限り、理想的な場所にはたどり着けないかもしれなかった( 〜無論、現在は、広報を得る手段や情報そのものの選択肢も増えたと思う)し、たとえば、パーティーやクラブミュージックの存在意義も日本とは異なった機能やチョイス、都市消費文化的な意味での選択肢が少ない変わりに、パーティーが自明の文化として普及、浸透してるゆえの層の厚さと幅の広さがあるように思うのだった。

こんなことを感じるに至ったのは、泊まらせてもらったアパートメントの同じ建物に住んでる若い高校生たちが、クラブにはそーそー行けるわけではない事情もあるので、必然、誰かの家に集まってパーティーしたりするらしく、建物の入り口で、飲み物やスナック菓子( 〜リフレッシュメントという…このパーティー用語は、定着しないよなァ〜日本w)や音響機材を搬入してたり…

後述するが、屋外開催の入場無料のフェスティバル会場には、やはり、未成年お断りのヴェニューに条例で入れないような年かさのどじょっこだのふなっこたちが、地元のお祭りに参加してるちびっこよろしく、少年も少女も張り切ってブーツィーダンスをしたりするのを間近で見たことからだった。( 〜このとき、いわゆるゲットーベイス的エレクトロをかけるDJアゾルトが、スピンしていたのだが、丁度、日本の祭礼のときの祭囃子のようなポジションでもあるんだろうなぁーとも感じた )

そのすぐ近くでは、フェス会場だった公園の管理会社のお掃除のおばちゃんも掃除しながら、ダンスしてたもんなーw ありゃー、楽しかった♪ 

 

確かにダウンタウンの至る所で、1967(~ぼくの生まれた年でもあるが、この年は当時の北ベトナムでのアメリカ軍による、「北爆」が開始され、派兵される兵員も倍増されて、この後、一気にベトナム戦争は激化していく )デトロイト市内で起きた暴動の頃のまま、置き去りにされたかのような建物をはじめ、富裕層が、半ば放置したような空き家や、産業の衰退とともに閉鎖された工場( ~You Tubeで検索すると、そういった空き工場に住んで暮らしてる強者おじさんも居るようだ )等々、結構目にするし、何より、あからさまなのは、市内つまりダウンタウンデトロイトの道路のガタピシっぷりには、びっくりした。それは、まるで、60年代後半のまま時間が止まってしまったかのような雰囲気を放っていた。

あの感じを思い出すたびに、不可逆的に進んでゆく「現代の時間」とは、異なった形で存在してるようなそれぞれの時代固有の「現在の時間」みたいなものが、ちょうど、J Dillaのミュージックみたいに、ホログラムのようにあるんだろうな〜、という気持になって、先述したように「舶来モノ」としてのアメリカではない、ひらがな的価値観の「あめりか」とでも呼びたくなるような、持って帰ることのできない不可分の位相をビシバシと感じ、それこそ、今まで自分が享受してきたアメリカ文化は、いろいろな意味で水増しされたおかげで、とても薄っぺらいもんだった…と、口惜しい気持ちになった。

そして、昼間でも通りを歩く人はまばらで、何より、カージャックやカツアゲも頻繁に起きるから用心するように!と、釘をさされれば、もーこりゃ日常を取り巻く「漫画のコマ」の作りが違うんだ!と、自分に言い聞かせるようにして、街に滞在しながら見聞を深めようと思った。

 

最初の晩から、三日ほどお世話になったXさんは、デトロイトのハウスシーンの立役者の一人で、当時は、BEATDOWN SOUNDSというパーティーを主催してらした。彼とパートナーであるKさんの暮らしていた住まいには、Xさんのスタジオもあって、ちょうどリハーサルや仮り歌の録りなどやってらして、見学させてもらったり、音楽のことも少しだけど、かなりディープな話をしていただいた。

何より、前述のBEATDOWN SOUNDSのパーティーも体験することができて、デトロイトのクラブシーンのレジェンド:ケン・コリアーのプレイの洗礼を受けたようなひとたち~そして、伝説のパーティー『ダイレクトドライヴ』の頃から活動してらっしゃるヴェテランDJのひとたち:マイク・クラークさん、デラーノ・スミスさん、ノーム・ターリィさん、テレンス・パーカーさん、DJミンクスさんといった人たちのスピンを体験できる好機にも恵まれた。

 

このとき、すご~く感じたのは、平日だったせいもあるのか?お客さんは少なめで、この感じは、例えば日本でもよく目にする、知り合いばかりで、フロアで踊る人は、あんまり居なかったりもして、所の別なく、コアなことやってる人たちには、ついて回ることなのだろうなーということだった。

尤も、だからといって、そこで先細りというわけぢゃなく、ここが重要だと思ったのは、DJカルチャー以前のパーティーとかダンスに対する文化的な幅と奥行きの深さであった。

なぜなら、DJとして生計を立ててる人たちの場合、レセプションパーティーや結婚式のパーティーでの営業の仕事も少なくなく、プロとしてやってる人の多くが、どこかしらに出張で出かけてたりしてるのだった。

しかし、それにしても、ONE-Xというヴェニューで体験したBEATDOWN SOUNDSの人たちのスピンは、スゲエ音だった。シャワーというか海水浴みたいに大きな音の波飛沫を浴びれたような気持ち良さに溢れていた!( 〜注:ちなみにシラフでしたw)

 

XさんとKさんの住まいに滞在させていただいてる間、大阪からデトロイトに移住したKさんのデトロイトでのよもやま話から苦労話まで、いろいろとお話をうかがったり、お隣さんでもある友達の何人かとミュージックを聴いたり、このときの目的だったアンダーグラウンドレジスタンスの人たちに会うためのアポイントを取るための最初のきっかけをセッティングしていただいたり、本当にお世話になりました。感謝!!!!!

 

そろそろ、次なる寄宿先であるモーテルに移動。

場所は、ダウンタウンデトロイトのランドマーク:ルネサンスセンターから徒歩10分ぐらいの便利な場所。

このショアークレストモーターインというモーテルも60年代末から営業をつづけてる老舗の場所で、まぁ~、雰囲気ありましたよ。

一階にCliqueという朝食からランチ、ディナーまでやってる食堂で、滞在中、朝ごはん食べたりしました。

あ!よせばいいのに、チェックインした翌日の朝、当座の携行できるような食料や飲物を買うために宿の周りを散歩したんだった。

これが、災難で、おー本当に地面から蒸気が噴き出してるじゃん!とか言いながら、のほほんと歩いてたら、酔っ払い然としたお兄ちゃんに20ドル、無心されたんだった。

丁度あそこらへん、メモリーレーンというBARがあったんで、今でも忘れてませんよw

 ( 〜せっかくだったんで、その後、アルバム"Pisin Jaz From Mobile Station Radio"に同名の曲を収録しました♪ )

 

20歳前後の時季の東南アジア貧乏旅行で培った嗅覚は、まー、適度に役にも立ったけど、ひょっこり因縁つけられたりするのは、地元の人でも少なくないらしく、これに横柄な警官のパトロールと称した嫌がらせが常態化してるので、たまったもんではない!と、この後、仲良くさせてもらうことになった人に言われたもんでした。

 

さて、そんなすったもんだの散歩から戻った午後、ショアークレストモーターインの部屋で休んでいると、ノックが… 

昨日、こちらからの電話に快く応えてもらってたHAQQさんが登場!

丁寧にお礼を述べて、今回の来訪の目的を拙い英語で伝えると、「OK、明日から我が家に泊まっていいよ!マイクにも伝えとくから、まぁ、気楽によろしく!」と、快諾してくれたのだった。

 

翌日、チェックアウトを済ませ、HAQQさんのお宅に移動…と、その前にGraciot 大通り沿いにあるTransmatの事務所に立ち寄って、デリックメイやウアンアトキンスのレコードのジャケット世界とつながるような銀色のスペイシーな壁の内装や、エレキングデトロイト取材特集記事に掲載されていた写真で見ていたペインティングを直に見ることができて、興奮した。

あー、こーゆー記述になると、小学生の夏休みの作文みたいですね。

ともあれ、荒れた市内にあるのにオフィスの中は異空間という現実も見て、デトロイトのひとたちの暮らしの中から興った知恵:アートの逞しさを感じながら、今度は、さらに東部にあるHAQQ宅に移動。

到着して、ひとまず、ベイスメントに予備のベッドがあるから、そこで寝ていいよ…ということで、荷解きを済ませると…、

「今夜、マイクが、仲間達と連れ立って、この家に来ることになったから、紹介するよ」とのことで、実は、その時点では、マイク、つまりアンダーグラウンドレジスタンスの親分でもあるマッドマイクの顔も知らなかったので、どんなひとか?期待と緊張で、喉ばかり乾いた。

その日の晩、マイク・タイスンとイベンダー・ホリィフィールドの試合があって、当時、新しいサブマージが入る予定の中古ビルヂングを自分たちで改装中だったため、その改装中の現場には、まだテレビも持ってきてなかったとかで、急遽、HAQQ宅に集まって、全米でライヴ中継される試合をテレビ観戦することになったのだった。

やー、あのときは、興奮した。

そして、時間は、やってきた。

マッドマイクこと、マイク・バンクスは、当時いっしょに改装の施工をしていた仲間たちとやってきて、HAQQ宅のイスラーム信徒特有の静謐で上品な居間は、いきなり現場の詰所みたいな雰囲気になった。

本当に率直に言うが、この背筋のピンと張った、逆三角形の研ぎ澄まされた立派な成りをした職長さんみたいなひとが、あのマスターピース"Hi-Tech Jazz"を作った男なのか!

ネイティヴアメリカンの血も継いでいる彼は、アジアの端っこから来た身にとっては、親しみのわく佇まいで、まるで、これから武術の鍛錬でもするのではないか?というような無駄のない緊張感もこちらの気持ちを心地よいものにさせてくれた。

マイクのそばに居合わせて、思い出したのは、地元の町会の祭礼のときに、子供ながらにちょっと真似してみたくなるような身振りが格好良く映ってた太鼓のうまい先輩のことだった。

一気にぼくは、遠路遥々デトロイトに来たのに、地元の空気に舞い戻るような気持ちにもなったけれど、決して残念な気持ちになったわけでなく、何かスゲエ懐かしい…としか言いようのない気持ちになったのだった。

 

つづく( 〜ここまで2015年8月上旬に記載 )