不可視

死体にせよ、乳児にせよ、風俗産業に従事してるひとにせよ、「被写体」が無防備なところが、話題の写真家の無防備なところなのだと思う

つまり、自分の至らなさ/ツメの甘さを自分より非力な弱い立場の存在に対象化して、やんやイヤキチするパワーハラスメントと相似してしまってる

これ、たぶん記録出来る装置が介在してるから、ややこしいけど、件の「写真家・大橋仁」さんが「生のエネルギーの生々しさ」を可視化させようという、本質的に不可能なことを然ももっともらしい物言いをしてたり、「現代アート」として消費されてしまう展開になっちゃってる…ってことで、齟齬を生んでしまってるようにしか、見えないんだよな

これ、ドラッグで酔っぱらってるドープな状態を「深い内省」と錯覚しちゃったようなもんでさ、作家なり、人前に出る…という約束事を受け入れて尚、人前に出て、作家である…ということは、程度の多少は有れど、自ら旅の恥はかき捨てと勘違いし易い無防備さを許容することなので、メディア産業やマスコミ関係にも多いが、無防備のうちに「オゴリタカブ」るってわけじゃん?

写真家大橋仁さんの仰るような「生の生々しいエネルギー」を写真なり音楽なり、記録出来る装置…可聴/可視範囲の器械で捉えられたとしたら、それは単にノイズだったり(その仕組みを利用した作品は無数に有るが)、不快なもの〜例えば、汚物のようにニオイを発するようなものになっちゃって、作品として「機能しない」んだけどなー

 

何より、キュレイターの資質が落ちたってことでしょうか?